XXX

今日は少し早い時間に家を出た。
 英語で今日当てられる日だということを思い出し、学校で予習しようと思ったからだ。
 いつもより少し早い時間のためか、電車の乗客は学生よりもスーツを着た社会人の人が多く、混みいっている。
 自分もいつかこの一員になるんだなぁと、実感のわかないことを考えながら十数分。学園のある三沢駅に到着する。
 改札に定期券を通し、駅から出る。すると――
「おはようございます。井上先輩」
 と、彼女に声をかけられた。
 柔らかくウェーブした髪と、整った顔立ち。スタイルもよく、うちの制服もよく似合っている。
 この子は木野美土里。俺の後輩で、なぜか俺なんかの恋人をしてくれている。
「先輩。今日は早いんですね」
「ああ、英語の予習を学園でやろうと思って。木野さんも早いんだね」
 彼女とは、別に待ち合わせをしていたわけではない。
 いつもの時間ならば一緒になるが、今日まで会うとは思っていなかった。
「友達に宿題を見せてくれって頼まれたんです」
「へぇ、それは偶然だね」
 その後と、彼女の言葉に適当に受け答えしながら学園へと向かう。
「それじゃあ、先輩。またお昼に」
「うん」
 木野さんとは下駄箱で別れ、自分の教室へと向かう。
 2−A。
 その教室のドアをくぐり、自分の席へと着く。
 いつもより早い時間のために人は少ない。
 これなら静かで集中できそうだ。やることを早さと済ませてしまおう。
 俺は、英語の教科書を開いて勉強を始めることにした。

「ふぅ」
 軽い溜め息と共に顔を上げる。
 これだけ予習しておけば大丈夫なはずだ。
 時間は予鈴まであと5分というところ。教室も大分賑やかになってきた。
「おはよ〜っす!」
 と、そこで大きな挨拶と共に森崎が教室に入ってきた。
 そして、自分の席である俺の前の席に乱暴に座ると、こっちの手元をのぞき込んでくる。
「おっ、朝っぱらから勉強か? 精が出るなぁ」
「もう終わったよ。今日は英語で当てられるからね」
「ふ〜ん。今日は井上の番だったっけっか」
「そうだよ」
「まぁ、いいや。それはともかくとしてだ」
 森崎の顔に、満面の笑みが浮かんでいる。
 …なんか嫌な予感がするな。
「井上。彼女とはうまくやってるんだよな?」
「ん…まあ、それなりに」
「そうかそうか。じゃあ、今度の文化祭、彼女の可愛い姿を見たいよな?」
「…? 話が見えないんだけど」
「見たいよな? 見たいって言え」
 話の理解が出来ていない俺に、森崎は笑顔でプレッシャーをかけてくる。
「見たいよな? 想像してみるんだ。木野さんが可愛いフリフリの制服を着て接客する様子を」
「………」
「ふっふっふ。おまえも男だ。見たいよな? 見たくないとは言わせないぞ」
「いや、まあ…そりゃ、なぁ」
 見たいか見たくないかと聞かれればそりゃ見たい。きっと似合うだろうし。
「そうかそうか。なら、協力しろ。1−Cの文化祭の出し物を喫茶店に決定させるんだ! おまえは木野さん、そして俺が風の可愛い姿を見れらるように!」
「………」
 ここまできて、ようやく話が見えてきた。
 結局の所、森崎は、妹のウェイトレス姿を見たいだけらしい。
 相変わらずのシスコンっぷりだ。
「…あのさ、森崎」
「なんだ?」
「残念だけど、協力できないよ」
「な、なんだって!?」
 そんな風に愕然とされても困るのだけど。
「だってさ、森崎。俺たち二年が、木野さんたちのクラスの出し物に口を出せるわけないだろう? だから、協力したくてもできな―――」
「この、バカたれがあああああああ!」
「っ!?」
 突然の怒声と共に森崎が立ち上がる。
 そして、教室がシンと静まりかえる中、俺を指差し、
「お前の彼女の性格を考えろ! お前が一言頼めば、裸エプロンだってやってくれただろ!」
「ばっ! そんなこと頼むわけないだろ!」
 慌てて否定したが、森崎の言葉でクラスの何人かがものすごい目でこちらを見てくる。
 君ら、その妬みの視線はやめてくれ。本当に俺は無実なんだから。
 …でも、まあ、頼んだら木野さんはやってくれるかもしれないけどさ。
「お前は、彼女の可愛い姿を見れて幸せ。俺は、風の可愛い姿を見れて幸せ。みんなが幸せになれるんだぞ! なにが気に食わないというのだ!」
「気に食わないっていうか…」
 そんなことを頼むの、恥ずかしいじゃないか。
 コスプレしてくれっていうのと同じようなものなんだから。
「いいから、お前は黙って頷けばいいんだ」
「そんなの――」

 キーンコーンカーンコーン キーンコーンカーンコン

 反論しようとしたところで鐘が鳴り、先生が入ってきた。
「いいか。頼んだからな」
「ちょっと―――」
「出席取るぞ。井上」
「あ、はい」
 返事をしている間に、森崎は前を向いてしまった。
 はぁ、仕方ない。あとで断るしかないな。

 しかし、そんな俺の考えを余所に、森崎は休み時間の度にどこかに出かけてしまう。
 十中八九、俺に断らせないためだろうな、これは。

 そんなこんなで、結局森崎を捕まえたのは昼休みになってしまった。

「森崎、朝の話しだけど」
「おお、頼むぞ。ちょうど彼女も来たみたいだし」
「え?」
 教室の外でぺこりとおじぎする木野さんの姿。
 どうやら、また断る機会を失ってしまったようだ。
「ほら、早く行ってこいよ。愛妻弁当を食べるついでに、ちょろっと言えばいいだけだからさ」
「…はぁ、わかったよ」
 根負けである。
 森崎相手に断るのが面倒になってきた。
 仕方ないか。変な友人を持ってしまったと諦めよう。

 俺は、気の乗らないまま、木野さんを迎えに廊下に出た。
「ごめん、待たせたね」
「いいえ、こちらこそ。風ちゃんのお兄さんとお話していたところを」
「それはいいんだよ。ちょうど話が終わったところだからさ」
「それより、今日はどこで食べる?」
「あ、はい。天気もいいですし、中庭に行きますか? あ、でも、暑いかもしれませんね」
 秋とはいえ、まだ初めだ。確かに、陽射しは少し強いかもしれないけど…
「う〜ん、日陰に入れば気持ちいいと思うよ」
「はい。そうですね」

 そのまま二人で中庭に出、用意のいい木野さんが持ってきたレジャーシートの上に向かい合って座る。
 中庭には、何本か木が植えられており、幸いにも木陰には困らない。
 案の定、なかなか快適である。
「はい、先輩。今日のお弁当です」
「ありがとう」
 彼女の手から弁当を受け取ると、さっそく開けて食べ始める。
 うん。相変わらず美味しい。
「先輩、お茶をどうぞ」
「あ、うん」
 水筒のお茶を受け取り喉に流し込む。なんかもう、至れり尽くせりって感じだ。
 ほどなくして食べ終わり、空の弁当箱を彼女に返す。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした。今日のはどうでしたか?」
「当然美味しかったよ」
「そうですか。ふふ、よかったです」
 彼女が微笑んでくるのが照れくさくて、俺は空を見上げた。
 今日は本当にいい天気で、暖かい日光の光がここちよい。
「ふぁーあ」
 思わず欠伸が出てしまった。
 このまま昼寝をするのも、気持良さそうだな。
「先輩。時間になったら起こしますから、昼寝をしてもいいですよ」
「え、いいの?」
「はい」
 彼女の申し出は、非常にありがたい。ここはお言葉に甘えようかな。
「悪いね」
「いえ。では、どうぞ」
 と、そう言って自分の太股を指差す。
 …え?
「私の足、枕に使ってください」
「え、あ、いや…」
 恥ずかしいのか、ちょっと赤くなりながらそんなことを言われても困る。
 だって、ここ学園だよ。そんな、みんなが見ている前で膝枕なんて―――
「きゅ、急に眠気覚めちゃったなぁ、あはは」
 明後日の方を向きながら、笑ってごまかす。やっぱそんな恥ずかしいことできないよ、うん。
「そう、ですか…」
「うっ…」
 彼女の少し残念そうな声が胸に刺さる。
 なんとか話を逸らさないと――そうだ! 森崎に頼まれていた話があった!
「そ、そういえばさ、木野さんのクラスって文化祭でやること決まった?」
「文化祭ですか?
 う〜んとですね、多分、何かのお店をやると思います」
「へぇ、そうなんだ。喫茶店とか?」
「はい、多分…ただ、風ちゃんがものすごい反対しているんです」
「まあ、そうだろうね」
 あんな兄貴がいたら、そりゃあ反対するよな。
「じゃあ、木野さんは、どうなの?」
「私、ですか?」
「うん。やっぱり、反対?」
「いえ、私は別に…お祭りですから、可愛い服ですしあまり露出が多くならなければ、そこまで反対じゃないです」
「へぇ」
 そういうものなのか。てっきり反対なのかと思ってたけど。
「先輩は…」
「ん?」
「見たいですか? その…私の、そういう格好を…」
「うっ、いや、その…まあ、そりゃあ、ねぇ」
 見たいよ。俺だって男だしね。
「…わかりました。じゃあ、喫茶店になったら、見に来てくださいね」
「う、うん」
 え〜っと、これってもしかして、頼まれてたこと達成した?
 …はぁ、何とかなったな。
「先輩のところは、決まったんですか?」
「ああ。うちは劇になりそうなんだ。『俺が脚本書くー!』とか、張り切ってるやつがいてさ」
「ふふっ、先輩は何か役をやるんですか?」
「一応ね。脇役だけど」
「でもセリフはあるんですよね? じゃあ、楽しみにしています」
「あんまり期待されても、がっかりするだけかもよ?」
「そんなことないですよ。絶対」
「まあ、頑張るけど…」

 この後も、昼休みが終わるまでこんなたわいのない会話をして過ごした。

『お疲れ様でした〜』
 放課後。テニス部の活動も終わり、片づけをしながら部室へと引き上げる、その途中――
「いや〜、やっぱ木野さんっていい子だなぁ」
 同級生の泉がそんなことを呟いた。
 それに続き、泉の隣でぼりぼりとクッキーを食べている秋山が、
「料理もうまいしな」
 と言う。あのクッキーは、テニス部のマネージャーである木野さんの手作りで、部活の終わりに配ったものだ。
 お世辞抜きで、お店に出せるくらいの見た目と味だと思う。
「それに、あのスタイルも反則でしょ。一年であの体って、あと何年かしたらどうなるのか…末恐ろしい」
 今度は、俺の左隣を歩いていた水野だ。
 妄想して涎を出すのはやめて欲しい。
 そして、三人は申し合わせたようにこちらを向くと、
『この幸せもの〜』
 と言いながら、同時にこづいてきた。
「…痛いんだけど」
 三人とも、殺気が漏れてるって。

 部室に入ってからも、この話は続く。
「知ってるか? 木野さんって、実はいいとこのお嬢様らしいぞ」
「ああ、知っている。おまけに頭もいいらしい。英語とか話せるそうだ」
「うっそ! ホント、完璧じゃん」
『この幸せものー!』
「だから痛いって」
 しかも、さっきより。明確な悪意がひしひしと伝わってきている。何とかしないと、このままエスカレートしていきそうだ。
「君らね、俺にどうしろって言うんだよ」
「俺たちにも幸せをわけろ!」
「そうだそうだー!」
 泉の言葉に、水野が同調する。
 しかし、幸せをわけろと言われても…
「具体的には、女を紹介しろ。木野さんの回りには一年の綺麗どころがそろっていたはずだ」
「それって、森崎の妹、花村さん、岩見さんのことか?」
 木野さんのそばにいる子といえば、その子達だろう。
 何度か会ったことがあるが、確かに可愛い子たちだ。四人そろうと、そこらのアイドルグループにも引けをとらないと思う。
「俺は、岩見って子、希望な。あのメガネの可愛い」
「泉はメガネ好きだったな。なら、俺は、花村ひなただ。あの体、なかなかに魅力的だからな」
「じゃあ、俺は森崎の妹の風ちゃんだっけ?
 あの小さい体を俺のものに…ぐふふっ」
 泉、秋山、水野はうまく希望の子が分かれたらしい。
 けど、言わなきゃダメだよなぁ。あの子たちは、見込みがないって。
 森崎の妹に手を出そうものなら、森崎兄に殺されるし、花村さんは確か彼氏がもういるはず。そして、岩見さんは、森崎に惚れたとのことだ。
 まあ、かわいそうだけど、真実を伝えよう。
「…あ〜、盛り上がっているところ悪いんだけどさ」
 俺は、あーだこーだ言い合っている三人に、その旨を告げた。
 結果――
『ちくしょう! 何で、俺たちには女が回ってこないんだ』
 三人とも、部室の床を叩いて泣き出した。
 …そんなに悔しいのだろうか?
「あのさ、その…元気出せよ」
『お前に言われたかないわ!』
 思わず慰めたら、やぶ蛇っぽかった。
「勝者の余裕か! ええっ!」
「いや、そんなつもりは…」
「お前に、俺たちの気持ちがわかるか? どうせ木野さんとやりまくっているんだろう? そんなお前に、もてない俺たちの気持ちがわかるはずがない!」
「ちょっと、落ち着けよ。俺は、別に…」
「くそっ、こうなったら洗いざらい全部しゃべってもらうからね。木野さんとどんな風にやってんのさ!」
「ちょっ! 話が変な方向に行ってるぞ」
『うるさい! お前は素直にしゃべればいいんだよ!』
「しゃべれったって、木野さんとそんな関係になってないよ!」
『……え?』
 俺の言葉で、三人が固まった。
 …あれ? なんか変なこと言ったかな。
「お前ら、付き合って結構立つよな」
「あ、ああ」
「やってないのか?」
「…ああ」
『………………』
 なんか、三人ともすごく意外そうな顔をしている。
「…そんなにおかしいことかな?」
「いや、まあ、おかしくはないが…木野さんの態度を見てるとなぁ。あの子、井上が言えば拒みそうにないし。
 そんな気にならないのか?」
「ならなくはないけど…でも、それってそんな簡単にすることかな?」
 泉の問いに、逆に聞き返す。
「あの子のこと、そんな簡単に傷つけたくないよ」
「う〜ん…そういうもんかねぇ?」
「実は井上、木野さんのこと好きじゃないとか?」
「え?」
「水野。いくらなんでもそれはないだろう」
「え〜、でも、俺が井上の立場なら問答無用で襲い掛かってるよ」
「あははっ、水野。頼むから、そこいらの奴に襲い掛かるなよ。犯罪だからな」
「なんだとぉ!」
 そこから、水野がいかに変態かについて話が流れていく。
 けれど、俺の頭の中を占めていたのは別のことだ。

「実は井上、木野さんのこと好きじゃないとか?」

 木野さんが迎えに来るまで、水野の言ったこの言葉が俺の頭の中をぐるぐる回っていた。

 木野さんと出会ったのは、今年の四月。
 マネージャーとして、彼女がうちのテニス部に入部したのが最初だ。
 うちみたいな弱小の部活にマネージャーが!
 しかも、可愛くて練習後に手作りのお菓子を振舞ってくれるような女の子だ。
 当然ながら男子部員は色めき立った。
 何人も告白しては、その度に玉砕したらしい。
 理由は、他に好きな人がいるから。
 男子連中が、その名前も知らない相手に対して殺気だっていたのを良く覚えている。
 でも、まさか、その相手が俺だったなんて――
 そのことを知ったのは六月の初め。
 練習が終わって、帰るときだった。
「井上先輩」
 木野さんが、校舎の前で待っていたのだ。
 今日は、じゃんけんに負けて部室の鍵を返しに行っていた。
 泉たちは、校門のところで待ってもらっているから、ここから少し距離がある。
 つまり、現在二人きりだ。
「好きです。先輩」
 そんな状況で、こう言われた。
 頭が真っ白になった。
 何かの冗談かとも思った。
 けれど、木野さんは暗くてもわかるくらい真っ赤になっていて、冗談なんかではないことがわかって――
「あ、えっと…」
 何か答えなくてはいけないと思った。
 付き合うか、付き合わないか。そのどちらかを言うべきなのだろう。
 でも、付き合わないと言うと、彼女は傷つくんじゃないか? 泣いてしまうかもしれない。
 だったら、俺は…
「いい…よ」
「え?」
「よろしく。付き合おう」
 そのときの、彼女の嬉しそうな顔は良く覚えている。
 とても、綺麗だったから――

 こうして、俺と彼女は付き合い始めたんだ。
 俺は、彼女のことが特に好きだったわけじゃない。けれど、こんないい子だ。付き合っているうちにきっと好きになるだろうと思っていた。
 あのときは――
 今の俺はどうなんだろう?
 あれから、数ヶ月。彼女のことを好きになれたのだろうか?


 日曜日晴れ。
 なのに部活は休みという弱小部にありがちなやる気のなさを利用し、今日は彼女にデートに誘われている。
 十一時。時間ぴったりに待ち合わせ場所である駅前に行くと、木野さんは既にそこにいて、笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます、先輩」
「おはよう。待たせちゃったかな?」
「いえ、大丈夫です。来たばかりですから」
 お決まりのセリフを言い合いながら、並んで歩き出す。
「それで、今日はどこへ行こうか?」
「先輩は、どこか行きたいところはありますか?」
「う〜ん、木野さんに合わせるよ」
「私ですか? 先輩と一緒なら、どこでもいいですよ」
「あはは…」
 彼女はいつもこうだ。
 あまりにも真っ直ぐに好意をぶつけてくるので、正直照れてしまう。
 
 昼までもう少しあるので、とりあえず散歩でもして少しお腹は減らそうということになった。
 噴水のある市民公園。休日ということで家族連れも多い。
 駆け回る子どもたちを見ながら、二人でゆっくりと歩く。
 歩きながら考えるのは、これからのことだ。
 お昼ご飯は適当なレストランに入るとして、その後はどうしよう?
 妥当なところで映画だろうか…う〜ん、何か新作あったかなぁ。
「先輩。あの…」
 確か、CMで何かやってたはず。え〜と…
「…手を、繋いでもいいですか?」
 恋愛映画だったよな、確か。タイトルが思い出せないけど、デートで見るものとしては、丁度いいだろう。
「先輩?」
 よし。じゃあ、昼を食べたら映画にしよう。
「先輩」
「え、あ…」
 横を見ると、木野さんが寂しそうにこちらを見上げていた。
 …やば。考え事に夢中で、木野さんを放っておいてしまった。
「ご、ごめん。聞いてなかった。何?」
「……いえ、なんでもないです」
「そ、そう?」
 なんでもないって顔、してないんだけどなぁ。
 どうしよう? なんてフォローしたら―――
「それより、先輩。そろそろお昼にしませんか? 京ちゃんが美味しいお店、見つけたんですよ」
 と思ったら、あっという間に彼女の表情は笑顔に切り替わった。
 …もしかしたら、本当になんでもないことだったのかもしれない。
「わかった。案内してよ」
「はい」
 彼女の後ろについて、公園を後にした。

 木野さんの案内してくれたパスタ専門店で、一緒に食事。そのあと、さっきの思いつきの通り映画を見た。
 ありがちな恋愛映画。正直、少し退屈だった。なんとか眠るのだけは我慢したけど、内容はほとんど覚えていない。
 映画のあとは、ウィンドウショッピングだ。映画の話題が上るかと思ってびくびくしたけれど、不思議と彼女はそれには触れてこなかった。もしかしたら、彼女もおなじだったのかもしれない。
「先輩。この服なんて、似合うんじゃないですか?」
「そうかな?」
 まあ、こんな風にいくつかのお店を冷やかしていたら、夕方になっていた。
 これで、今日のデートは終りである。
 あとは、駅まで一緒に行って、別々の電車に乗って別れる。
 普段のデート、そのままである。
 でも、今日だけは違った。
 彼女がこんなことを言い出したから―――
「……先輩。今日、先輩の家に行っていいですか?」

 断る理由がなかった。
 だから俺は、ただ頷いていた。

「お邪魔します」
「どうぞ」
 彼女をリビングまで通し、とりあえずソファーにでも座ってもらう。
 親は幸か不幸か外食に出かけたらしく、適当に食べてねとのメモ書きが置いてあった。
 まあ、よくあることなので気にしないでおく。
「え〜と、何か飲む?」
 冷蔵庫を開けてみると、牛乳くらいしかない。こんなことになるなら、ジュースくらい買っておけばよかった。
「あ、大丈夫です。ところで、先輩のご両親は?」
「ん、食いに出かけているみたいだね。しばらくは帰ってこないんじゃないかな」
「…そ、そうですか」
 木野さんの口調が、少し固い。
 …あれ、もしかして、警戒されてる?
 でも、まあ、男の家で二人きりの状況じゃ、しょうがないのかも。
「警戒しなくても、何もしないからさ」
 一応フォローして、木野さんの隣に座る。
 とはいえ、これからどうしたらいいのだろう?
 彼女が、どうして家に来たがったのかはわからないけど、これじゃあ、間がもたない。
 いったい、何をすれば―――
「しないんですか?」
「……え?」
 何かとんでもない言葉が聞こえて、思わず隣を見る。
「しても、いいんですよ?」
 彼女の二つの瞳が、じっと俺の目を見て離さない。
「な、何を?」
「そんなこと、言わせないでください」
「ご、ごめん」
 つい謝る。
 今の俺は、相当間抜けだと思う。
 訊かなくたって、木野さんが何を言っているかくらいわかる。
 それが、冗談かどうかもだ。
 彼女の声は、震えているのだ。
 声だけじゃない。体だって、がくがくと震えている。
 木野さんは、間違いなく本気だ。
 でも、本当にいいのか?
 こんな、いきなり――
「覚悟なら、この家に入った時点で済ませてます」
「………………」
「だから、先輩。私を、貰ってください」
 蚊の泣くような声でそう言って、彼女はぎゅっと目をつぶった。
「………………」
 ごくっと、口の中の唾を飲み込む。
 俺だって男だ。
 据え膳食わねばなんとやら。こんな可愛い子が、目の前でここまでしてくれてる。こんな状況で、興奮しないわけがない。
「…いいんだね?」
 最後の確認。
 彼女は、目を閉じたまま頷いた。
 俺は、彼女の両肩に手を置き、こちらに体を向かせる。
 そして、その唇に自分のそれを近づけ――

「実は井上、木野さんのこと好きじゃないとか?」

「――――!?」
 ―――瞬間、水野の言った言葉が頭をよぎり、俺は動けなくなった。
 俺は、木野さんのことが好きじゃない?
 好きじゃないのに、彼女を抱こうとしているのか?
 こんなにも、彼女は俺を好きでいてくれているのに、俺は、俺は―――

「………………」
「………………」
 どれくらい、そうしていただろう。
 彼女の肩に手を置いたまま、ずっとその先には進めないでいた。
「……うぅ、ひっく」
 聞こえてきたのは嗚咽。
 見ると、彼女の瞳が開かれ、そこからぼろぼろと涙が零れていた。
「木野…さん?」
「これでも、ダメなんですね」
「え?」
「先輩は、私の体すら、求めてくれないんですね」
「いや、それは――」
「もう、いいです。もう、終わりにします」
「え、あ、終わりって…?」
 ダメだ。頭が混乱して、展開についていけない。
「先輩が、私のことなんてなんとも思ってないのは知っていました。
 でも、形だけでも恋人になれたんです。いつかは私のことを見てくれる。私のことを好きになってくれる。そう思って、そう思って頑張ってきた。けど――」
 彼女のこんな顔、初めて見た。
 整った顔をくしゃくしゃに歪ませて、泣きながら俺に訴えかけてくる。
「先輩は、私を見てくれなかった! 付き合ってから、一度たりとも!
 どれだけ寂しい思いをしたかわかりますか?
 隣にいるのに、その人にとって私は、なんでもない存在だなんて!
 せめて、抱いてくれれば、その間は私のことを見てくれると思ったのに――
 それでもいいと、そう思ったのに――
 先輩は、それすらも求めてくれなかった。
 私は、欲張りなんです。側にいてくれるだけで幸せだなんて思えない。
 先輩の、心が欲しかった。私のこと、見て欲しかった」
「………………」
「無理、なんですよね?
 先輩が、私を好きになるなんてこと、これからもないんですよね?」
 そんなことはないよと、俺は言えなかった。
 現にこの数ヶ月、俺は、彼女のことを好きになれなかったのだから――
「……やっぱり」
 俺の沈黙が、彼女の最後の希望を打ち砕く。
「…さよならです。もう、私、先輩につきまとったりしませんから」
「あ…」
 彼女は立ち上がり、走り去ってしまった。
 引き止める言葉なんて浮かばなかった。
 彼女の心をズタズタに傷をつけた俺に、いったいどんな言葉がかけられるというのか?
 ただ、ぼんやりと彼女との関係が破局したのだということだけが浮かんでいた。

 ろくに寝れもしないまま、夜が明けた。
 体はだるいが、このままベッドで横になっていても仕方ない。とりあえず、学園に行くことにする。
 いつもの時間、いつもの電車に乗り、三沢で降りる。
「………………」
 やはりと言うか、当然と言うか、「おはようございます、先輩」という挨拶をしてくれる相手はどこにもいない。
 そのまま学園への道を、一人歩いていく。
 …ああ、参ったなぁ。一人で登校するのって、こんなに寂しかったっけ?
 隣にいつもいた人がいない。それだけで、こうも変わるんだな。
 そんなことを感じながら黙々と歩き、学園へと到着する。
 教室まで行き自分の席に着くと、机に突っ伏す。
 眠くてだるいのに、今は眠れる気がしない。最悪である。
「おうおう、どうしたー? 朝からテンション低いぞー」
「…森崎か」
 顔を上げると朝っぱらからテンションの高い男が目の前にいた。
「なんだなんだ? なんかあったのか?」
「……まぁ、ちょっとね」

 がららっ!

 そのとき、いきなり教室の後ろのドアを開けて、一つ下の学年の制服を着た女の子が入ってきた。
 あれって、確か…
「風! お兄ちゃんの教室にお前から来てくれるなんて――
 寂しくなったんだね。風は甘えん坊だなぁ。
 でも、大丈夫。お兄ちゃんが抱きしめてあげ――」
「井上先輩」
 森崎の妹は、兄の横を通り過ぎると、俺の前に来た。そして――

 パンッ!

「―――っ!?」
 俺の頬に、思いっきり平手打ちを食らわした。
『………………』
 教室中が、シンと静まり返る。
 みんなの気持ちはわかる。当事者の俺だってその一人である。
「よくも、みーちゃんを!」
「風ちゃん!」
 もう一撃と森崎の妹が腕を振り上げた瞬間、今度は木野さんが教室内に飛び込んできて、森崎の妹を捕まえる。
「放して、みーちゃん!」
「風ちゃん、やめて! 誤解、誤解なの!」
「誤解って、何が? この人にひどいことされたんでしょ? 私が倍にして返して――」
「違う! 先輩は何もしてない! 何もしなかったの!」
「でも!」
「失礼しま〜す」
 と、そこへ今度は花村さんと岩見さんが教室に入ってくる。
「うちのクラスのバカ娘がお邪魔して――
 ああ、いたいた。風。さ、あたし等のクラスに帰るよ」
 そう言って、木野さんの代わりに森崎の妹をがっちりと拘束する花村さん。
「ちょっと、ひなた! 話はまだ終わって――」
「風ちゃん。今は、ひなたちゃんが正しいと思うよ」
「京ちゃんまで!? 
 って、わひゃあ!? ひなた! あんた、どさくさに紛れて変なとこ揉まないでよ!」
「あ〜はいはい。文句なら後で聞いてやるから。その前に、美土里の話を最後まで聞こうな」
「は〜な〜せ〜」
 抵抗むなしく、森崎の妹は花村さんに引きずられるまま教室から出て行ってしまった。
「お騒がせしました〜」
 それに続くようにして岩見さんが出て行き、最後の木野さんはこちらに頭だけ下げて出て行った。
 後に残ったのは、未だ状況についていけていないうちのクラスだけ。
 当然、視線は渦中の人物である俺に集まって――
 そんな中、最も早く口を開いたのはこの男である。
「ふむ。風が怒っていたということは…井上。お前は俺の敵だな!」
「………………」
 そんな風に指差しながらポーズ決められても、リアクションに困ってしまうんだが…
「まあ、それはともかく、実際のところ何があったんだ? 木野さんと、なんかあったんだろ?」
 かと思いきや、森崎は急に核心へと触れてきた。
「………………」
「まあ、言いたくないなら、別に――」
「…別れたんだ」
「――…そうか」
 今の俺たちの現状を見られたんだ。隠すこともないだろう。
 俺は、森崎に事実を告げていた。
「それで、原因は? 風が言うようなことをお前がしたからか?」
 俺は、森崎の問いに首を振る。
「何もしていない。何もしなかったんだ。
 ……だから、愛想をつかされた。ただ、それだけだよ」
「……ふむ。で、お前はそれでいいのか?」
「え?」
「よりを戻したいとかそういう気は――」
「ないよ」
 森崎の問いに、俺は即答する。
 だって、俺にそんな資格はないのだ。
 この数ヶ月間、ずっと彼女を傷つけ続けた俺に、そんな資格などどこにもない。
 今、彼女に必要なのは、俺ではなく別の誰か。
 ――そう。彼女のために本気で怒れるような、本当に彼女を大切に思っている人。
「お前の妹…」
「ん?」
「いい子だな」
「な、なんだ、いきなり? そんなこと言われても、お前なんぞに風はやらんぞ!」
「わかってるよ」
 わかっている。そんな意味で言ったんじゃない。
 ただ、森崎の妹がいれば、木野さんは立ち直れると、そうなんとなく感じただけだ。
 きっと立ち直って、また笑ってくれる。そして、誰か他の人を好きになっていくだろう。
 それは、少し寂しいけれど、彼女にとっては一番いいことだ。
 俺なんかと付き合うより、ずっと幸せになれる。
「……あ〜あ。俺、何を間違ったのかな?」
 もっと彼女を見てあげればよかった?
 それとも、いっそ傷物にしてしまえばよかったのだろうか?
 いや、そもそも付き合うべきではなかったのかもしれない。
「なあ、井上」
「うん?」
「気を落とすな。人生なんて、そんなもんだろ」
 森崎は、俺の肩をぽんと叩いて笑った。
「そんなもん…か。簡単に言うなぁ」
「言うさ。他人事だからな」
「うわっ、はっきり言いやがった」
 森崎とのバカなやりとり。少し元気が出た。
「…ありがとう、森崎」
「ん、何が――」

 キーンコーンカーンコーン

 森崎はわかっていないようだが、チャイムが鳴って先生が入ってきたので話はここまでとなった。
 俺は、心の中でもう一度森崎にお礼を言ってから、机に突っ伏して眠ることにした。

 昼食――
 久々に食べた学食のランチの不味さに驚いた。
 こんなものを、数ヶ月前の俺は平気で食べてたんだっけ。

 放課後――
 テニス部の部活にも、木野さんは姿を見せなかった。
 部活の連中も、朝の騒ぎで俺と木野さんが別れたことを知っていたようで、妙に優しかった。
 部活が終わり、部室の鍵を返しに行ったときに、先生から木野さんが退部届けを出したことを聞いた。
 これで、もう、俺と彼女の接点はない。
 ――知らなかったな。隣を歩いてくれる人がいないのが、こんなに寂しいことだったなんて。
 でも、まあ…
「人生なんて、こんなもんか」
 早く慣れなくちゃ。一人の登下校も、一人の食事も――
「…さよなら。木野さん」
 

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